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カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2011年7月 3日 (日)

医者は医者らしく

 毎回、脳外科医の話で恐縮だが、ダニエル・デイ・ルイスの出世作、「存在の耐えられない軽さ」という映画を覚えている人はいるだろうか?「プラハの春」それに対するソ連軍(ワルシャワ同盟軍)の弾圧、という重いテーマで、尚且つ長い(4時間を越えるんじゃなかったかな?)ので、レンタル等されていても気軽にお薦めする事はできないが、ヨーロッパの現代史に興味のある人とか、「マイ・レフトフット」以前のダニエルを知らないという世代は、観ておいた方がいいと思う。

 余計なお節介はこれくらいにして、とにかく劇中、こんなシーンがある。天才脳外科医と「反体制派」の両面を持つトマシュ(ダニエル・デイ・ルイス)に、ソ連の将校が事実上の恫喝をするのである。「医者は医者らしくしていた方が良いのでは?」(翻訳調)

 一方、春がきたのかどうかも気にしている余裕がなかった日本では、今、一人の精神科医がある雑誌寄稿文で物議を醸している。その文章がインターネット上に掲載されるやいなや、とりわけツイッター上では「脱原発派」から非難の嵐が吹き荒れた。特に問題とされたと思われるのがこの一説である。

「特に、これまで一般社会にうまく適応できなかった、引きこもりやニートといった人たちがその中心層の多くを占めているように見えます。」

  <脱原発という母集団>と<ニート「引きこもり」の母集団>の相対的大きさの違い、それの重なり度合いの分析。ここに決定的な認識の誤りがあるようなので、非難を浴びても致し方無いだろう。しかし私はそれほど厳しい見方をしていない。例えば彼女が丸山真男氏やその弟子筋であるならば「いかなる社会的実践に基づいて、そのような現状認識に至ったのか?」と詰問するところであろうが、彼女は医者(精神科医)である。

 何故医者ならば大目に見るのかというと、これは全く個人的事情から生じるものであるが、私自身が医者と深く関わる仕事をしていたからである。医者とは存外、自分の専門外の問題については、「そんなもんである」彼女の場合、文章なので、それなりの推敲はしたのであろうが、医師一般について言えば、日常会話は迂闊な発言の連続である。私自身若造であったにも関わらず「先生それ違いますよ」とベテラン医師に何度諫言したことか。

 「問題のすり替えである」多くの人はそう指摘するだろう。しかし彼女を批判する側にも、全体の大意を読みきれず、あたかもタイトルに登場する小出先生が批判されているかのような、「問題のすり替え」を行っている輩がいるので、敢えて対抗的に「先制攻撃」させてもらった。何より彼女の専門性からいって、普通に問題なく生活している人や社会的ステイタスがある人(これを全員問題無いと言い切っていいのかどうかは読者の判断に任せるが)を分析対象に選ぶとは思えない。

 そう、精神科にお世話になるような覚えの無い人は、最も初歩的なSNSスキルである「スルー」すればよかったのである。逆に言うと身に覚えのある私は、何の躊躇もなく読み進めてしまった。そして、この3ヶ月自分を監視していたのではないのかと思えるほどの(問題のある人間には)容赦のない分析力。感心するやら落ち込むやら。そしてツイッター上では「俺達はニートや引きこもりじゃねえ」の大合唱。A∧Bの私は一挙に居場所を失うハメに。

 それも小出先生を誹謗中傷しているとする「曲解」に比べれば大した問題ではない。彼女自身はきちんと、周りから不当な差別受けながらも、自分の信念を曲げずに原発の危険性を訴え続けた、不屈の科学者という正当な評価をしている。それを「担ぎ上げている」集団の一部に精神衛生上の問題があるからといって、何故それが小出先生が汚された事になるのであろう。

 確かに「ヒーロー」という小出先生が最も嫌いそうな、挑発的なタイトルにも問題はある。しかし商業誌であれば、このくらい許容範囲だと私は思う。たった一節の現状認識の誤り、小出先生不可侵論とも思える「ヒステリック」な反発。「140字」ばかり読み慣れていると、全体の大意をつかむこと、個性的な分析力を評価する事、等の能力が衰えてくるであろうか?

 最後に某精神科医にも僭越ながら一言。今後も「社会病理論」等を大いに論じるのであれば、社会科学の基礎(概念規定の厳密性等)を再度押さえていただきたい。まさかとは思うが今回の事に懲りたというなら「医者は医者らしく」しているのも悪くないかも。私は軽蔑するが。