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2012年2月22日 (水)

光市母子殺害事件の顛末について思うこと

 複数のSNSで抽象的にこの話題に触れてきたが、言いたい事があるならハッキリ表明しないと、まず自分の精神状態が安定しない。究極の自己中心的「駄文」をこれから垂れ流す。

 犯行当時少年であった被告(もう死刑囚と呼んでいいのかな?)彼については一点の事しか興味が無い。犯行途中、乳児に手をかけようとした時の「心情」だ。報道等では、うるさく泣いていたから…と伝えられているが、証言能力のあろう筈がない乳児を「うるさい」という理由だけで殺害できるものだろうか?そこに、少しの逡巡も無かったのだろうか?それらが裁判を通じて本当に明らかにされたのかという点である。

 計画性の乏しい衝動的な犯行である為「(犯行時の感情の起伏は)覚えていない」のが普通だろう。だが、それを思い出させるのが裁判の大きな役割だと信じる。そもそも、それ以前の残虐行為に及んでいる時、泣き止まない乳児の声を不審に思い、近隣の人が駆けつける事を事実上警戒しなかった。それならば「うるさい」というのは理由にならない。

 だから被告には、乳児の体に手をかけて独特の温もりを感じた時、何もしなくても壊れそうな未完成な体を抱き上げた時の感触、時間にしてどれくらいかは想像もつかないが、コマ送りのように瞬間、瞬間を思い出す義務がある。そしてその時々に対応した感情の揺れを、自分自身の深層心理の中から抉り出す努力をする必要がある。

 検察、裁判官、そして「被害者参加人等による被告人質問」という「武器」を手に入れた本村氏は、その為に助力したのか?大人は手で首を絞めたのに、乳児は紐で絞めた。この違いの本質を被告に気づかせられたのか?大いに疑問である。

 そして、巷では死刑制度についての賛否だけが独り歩きをして論じられている。冒頭に記すべきだったが、筆者は問答無用の死刑廃止論者である。だからと言って被告を擁護するつもりはさらさら無い。問題なのは、罪の軽重では無く、被告自身の心の闇を浮かび上がらせ、それと向き合い、それと闘わせる機会を与えるかどうかである。

 その事は、或いは「死刑」よりも残酷な行為かも知れない。それを強要する事によって被告の精神状態が、いよいよ破綻するかも知れない。しかしそれを避けて通れば、日本の司法は「裁判員制度」の導入と相まって、ますます被害者側の「心情」を慮るだけの機関に堕していくだろう。

「せめて子供だけでも…」その問いかけに「答え」は必要ないのか?